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2007年6月19日 (火)

ゼノフォビアとしての黄色い怪物

ジェンダー論やポストコロニアリズムを軸にして『フランケンシュタイン』を論じた書物が何かないか探していたら、『美学とジェンダー 女性の旅行記と美の言説 Women Travel Writers and the Language of Aesthetics 1716-1818” という書物を見つけた。この訳者は、実は知り合いである。

11章から第16章まで、語り手はヴィクターから怪物に変わる。インゴルシュタットのフランケンシュタインの実験室を抜け出してから、これまでどのような日々を過ごしてきたのかが初めて明らかにされる。それはいわば、人外の者がいかにして人間世界で生き延び、人知を学び、人間を人間ならしめているものが何なのかをその身をもって読者に教える壮大な実験の物語となっている。

怪物は、まず火を見つけ、その仕組みを知る。動物と人とを分ける指標は火である。旧約聖書では、堕天使が誘惑して認識の木の実を食べさせたことがきっかけで、人間は自然から切り離されて楽園追放されるが、ギリシャ神話では、プロメテウスが人間に火を与え、その罪によってコーカサスの岩山に鎖でつながれることになる。いずれも、神の秩序に反する力を手にしたことが人間を人間ならしめるきっかけになっているわけである。フランケンシュタインのモンスターもまた、火を手に入れることで人間と同じく知性ある存在としての一歩を進む。空腹や睡眠や寒暖といった身体的必要だけではなく、感情を持つ存在として育つのである。

他者とのコミュニケーションがあってはじめて人間は人間になる。おそらく日本中の学校や会社で先生や上司が、人間という字は人の間と書くというありがたいお話をしてくれていると思うが、オオカミに育てられた少年とか、熊に育てられた少女とか、ストリートファイター2のブランカとか、親を含めた他の人間との交流が欠けた環境で育った人間は、単に言語や知識だけではなく、人間らしさが見られない。人間社会に迎え入れられ、補完的に関係を構築してはじめて人間となるのである。仮面ライダーアマゾンも、少年マサヒコと友だちになって言葉を覚えてからようやく感情が芽生えてヒーローらしくなるのである。

フランケンシュタインのモンスターも、人間社会に迎え入れられて「人の間」に関係性を築くことができれば、この小説の悲劇も起こらなかったのだろうが、この小説はSF的なゴシックホラーなので、もちろんヒーローもののような成り行きにはなりえない。

火を手に入れた怪物は、飢えを逃れるために次に人里に入るが、黄色い肌を持つ8フィートの巨人なので、もちろん暖かく迎え入れられるはずもなく、ありとあらゆる攻撃を受けて這々の体で逃げ出し、怪我をして野原の小屋に逃げ込む。そこは異邦人ド・ラセーの家に隣接する小屋だった。

怪物はドイツのインゴルシュタットの森を抜けて村に行ったのだから、その村はドイツの村である。ド・ラセー一家は、名前が示すとおり、そして後になってその素性も明らかにされるように、フランス人である。彼らは母国から追放され異境での隠遁生活を余儀なくされている。怪物もまた、「人に姿を見せられぬ獣のようなこの姿(早く人間になりたい!)」と歌われる『妖怪人間』さながらに、人目を避けて生きていかなければならない。隠れ住むという共通項が怪物にとっては都合がよかった。

だが、隠れ住むのは共通していても、彼らは家族愛でつながった集団であるのに対して、怪物はまったくの孤独である。自分と同じ種類を持たないまったくの孤独なのである。その孤独感をますます身にしみて感じさせられる出来事がさら追い打ちをかけるように生じる。この一家に、さらに異質な存在が加わるのである。怪物と同じように言葉を話せない異邦人のサフィーである。この一家が異邦人として隠遁生活を余儀なくされたのは、この家の息子フェリックスがサフィーの父親を牢獄から助け出すために尽力したためである。フランスから逃げ出すことに成功したとたんに、彼女の父親は裏切り、娘をトルコへ連れ帰ろうとするが、娘は一計を案じてフェリックスを追って見知らぬ国へやってきたのである。

ポストコロニアリズムという批評理論がある。パレスティナ出身のアメリカの文芸批評家エドワード・サイード をもってその嚆矢とする。その主著は、『オリエンタリズム』だ。「オリエント」とは、古代ローマ帝国から見て「日の昇る方向」を示しており、東方世界を意味する。ヨーロッパで「オリエント」に言及されるとき、十字軍をはじめとするイスラム教徒との長い闘争の歴史において生じた文化接触の記憶が定式化されていることを想起しなければならない。18世紀後半に始まるヨーロッパ近代の文脈において「オリエント」とは、異教徒たち、すなわち異質な宗教、異質な文化、異質な倫理観を持つ人々が住む国々であり、しかも具体的・現実的な国々というよりは、異質性を強調され固定化された表象としての国々である。

その表象は、シンドバッドの物語などに代表されるように、「異質」という質の違いに非合理や子供だましという劣悪な質を込めた「異国情緒」として固定化される。そしてそこには、先進的な西洋、旧態然とした東洋というステレオタイプが必ず付け加わり、理不尽に虐げられた人々を救う西洋の正義という図式が常に前提とされる。それは19世紀に地球規模に肥大するイギリスの帝国主義にとって都合の良い図式であり、21世紀になってもまだ、暴君フセインを打倒してイラクに自由をもたらすアメリカという物語のひな形にもなっている。

サフィーがトルコへ帰りたがらなかったのは、フェリックスへの思いもあるが、何よりもそこでの暮らしが「ぞっとするほど嫌」(p.166)だったからである。というのも、サフィーの母親はキリスト教徒で、サフィーに「自由」を与える宗教としてのキリスト教を説き、「より高い知性の力と精神の自立」(p.163)をあこがれるように教育した。アジアの女は、「ハーレムに閉じこめられ、幼稚な遊び事しか許されない」というイメージは、中東のオリエントだけではなく、日本の女を語るときにいまだに西欧のメディアが芸者を持ち出すところにも共通している。

忘恩のトルコ人、自由と人権のないオリエントから逃げ出して西洋化するために、ド・ラセー一家に合流するサフィー。そして、怪物もまた、サフィーと一緒に言葉を覚えて西洋化しようとするのである。黄色の西洋人、これは東インド会社を成功させることで帝国内に黄色人種を取り込んでしまったイギリスが抱く恐怖の原型である。外国人恐怖(Xenophobia)である。この外国人恐怖に関しては、去年この講義の枠でおこなった『ドラキュラ』でも取り扱ったので、この講義ブログの去年の部分でも言及している。科学力と軍事力の圧倒的な優位を背景に、攻め寄せ、支配した異民族が、今度は自分たちに刃向かうのではないかという根源的な恐怖心がその基礎にある。ドラキュラは英語を学ぶためにジョナサン・ハーカーをしばし城に幽閉し、やがて帝都ロンドンへ乗り込んで宮殿の近所に住居を探した。フランケンシュタインの怪物は、サフィーのフランス語授業を立ち聞きして言葉を覚え、そこで教科書に用いられたヴォルネーの『諸帝国の没落』をフェリックスが読み聞かせるのを聞いて、「怠け者のアジア人」(P.157)をはじめとする諸民族の特徴など、白人中心史観を身につける。

このヴォルネーの書物は実在する。彼の名は、Constantin François Volney、爵位を付けた正確な名前は、Constantin François de Chassebœuf, comte de Volney といい、ギロティンを逃れてエコール・ノルマルの歴史学教授を務めたこともある強運の持ち主である。ところで、ここで取り上げられている彼の著書の原題は”Les Ruines, ou méditations sur les révolutions des empires” で、出版年は1791である。ここでテクストの30ページを見てほしい。北極海の氷上でフランケンシュタインを発見したときのことをウォルトンが妹か姉に書き送っているが、17**731日の月曜日とある。その前にヴォルネーの書物が出版されていたとすれば、これは1790年代でなければならない。1790年代に731日が月曜日であったのは、1797年しかない。これはメアリが生まれた年であり、メアリが生まれることによってメアリの母親が死んだ年である。

フランケンシュタインを取り巻く2人の男、ウォルトンとクラヴァルは、ともに帝国主義的拡大の先兵として活躍することに「男の夢」を抱いていた。フランケンシュタインもまた、やり方は違うが、生命の神秘に分け入ってその仕組みを支配することで、西欧的知性の支配力を拡大する夢を抱いていたことは共通している。未開の、未踏の地へ、危険も省みずに突き進み、未知なるものが既知なるものに変わると、それは支配できる対象に変わっている。フランケンシュタイン、クラヴァル、ウォルトンの3人は、具体的な対象は異なるが、その発想は共通している帝国主義的拡大の欲望に促されている。そして、実際に生死の境界を越えて未知なる領域に踏み込めたのはフランケンシュタインだけであったが、その悲劇は、アジアに活路を見いだそうとするウォルトンとクラヴァルの欲望――帝国主義的欲望――に対する警告にもなりうる。前にも述べたように、Monster には 凶兆や警告という意味がある。フランケンシュタインが未知なる領域へ踏み込んで創造した怪物は、黄色く醜く、創造者である自分に従おうとしない。それはまるで、命をかけた冒険の末に巡り会ったアジア人、文明をもたらした自分たち白人を尊敬し、崇拝し、従順なる奉仕者となるはずのアジア人と同じく、黄色く醜く、しかも疫病をもたらす不潔なアジア人と同じようにやっかいな存在となってしまう。

そしてそのやっかいさは、人種差別という文脈において今も昔も変わりなく機能し続ける生殖力への恐怖につながる。怪物は伴侶を求めるのである。

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